
普段の診療で患者さんの訴えとして多いのは痛みである。頭から足の裏まで痛みは誰しもが経験したことのある症状である。医師は痛みの原因を問診、診察、検査で診断する。そして治療方針を決める。また痛み止めを処方することもあるし、処方しないこともある。痛みとは原因が分かるだけで楽になることが多いからである。痛みを受け入れられるからである。心の痛みだってそうだ。どうして心が痛むのかの原因が分かれば、その痛みも受け入れられるに違いない。
普段の診療で患者さんの訴えとして多いのは痛みである。頭から足の裏まで痛みは誰しもが経験したことのある症状である。医師は痛みの原因を問診、診察、検査で診断する。そして治療方針を決める。また痛み止めを処方することもあるし、処方しないこともある。痛みとは原因が分かるだけで楽になることが多いからである。痛みを受け入れられるからである。心の痛みだってそうだ。どうして心が痛むのかの原因が分かれば、その痛みも受け入れられるに違いない。
寂しいと言いながら愛を求める。その場の寂しい気持ちは誰かからの言葉や行動で、一時的には満たされるかもしれない。しかしまた時間が経てば不満となり、寂しさを感じる。愛されたいと願う。近くの誰かをコントロールしてまで愛されたがる。そしてそれを繰り返す。人は愛されて満たされることは一時的である。ときには愛されたい人を攻撃すらする。受け身で愛を求めている以上、欠乏感で苦しみ続ける。僕たちは愛されることではなく、愛することで満たされる。きっと寂しくはなくなる。誰かを思い行動することが愛である。
僕たちは人間は、一人では生きてはいけない。誰かに助けてもらい、支えられている。また誰かを助けて、支えているからこそ生きていける。それはいつも側にいて何かしてもらうことや手を貸すことではなくて、心の中に持つ感覚だと考える。絆とも言える。自分は一人ではない、困難なときには誰かが助けてくれたり、応援してくれているのである。そしてそれが辛いことや苦しいことに直面しても、なんとか乗り越えられる強さになる。ストレスを感じにくくもなるかもしれない。しかしそれは他人の顔色を伺って生きてしまう人、誰かに依存してしまう人には欠如している感覚であろう。生きているだけで僕たちは必ず誰かの役に立ち、誰かを支えていることも忘れてはいけない。決してその姿が見えていなくても、支え合って生きているのだ。そう思えることこそが人生を幸せにするのだ。今年もよろしくお願いします。写真は今年の発会式です。
「せっかくあなたのために作ったのに…」、「あなたのために私がどれほど…」と。これをしばしば言う人は、愛を押し付けたいだけ。相手から愛が欲しいだけ。見返りを求めているだけ。だから「あなたのために…」と言っている人には操作されなくていい。「人の為」と書いて「偽り(いつわり)」。もし押し付けている自分に気付けたら、自分を愛してあげることから始めなくては。
責任転嫁。何か自分に不都合なことが起こると、それを他人のせいにすることは、その場を楽にする。子供が問題を抱えたら妻のせいにする夫、離婚したのは配偶者が悪いという人、自分の人生が上手く行かないのは親のせいなどなど。他人のせいにするのは、自分が行動できなかったからである。父親としての子供への関わり、夫婦としてのパートナーシップ、親がどうであれ自分の人生である。あらゆることは誰のせいでもなく、自分の生き方の捉え方である。つまり自分に必ず責任はある。責任転嫁していれば、後から苦しくなるのが人生である。今苦しんでいるのはあのときの責任転嫁のせいかもしれない。