怒ることは仕方がない。しかし怒り続けることは避けるべきだ。怒りは自他への攻撃となり、そして新たな怒りを呼ぶ。そして戦争は続く。何年経とうが「あいつは許せない!」と、いつまでも自分の怒りを正当化して、こだわりの怒りを抱き抱えている。そんな人生苦しい。自分の中に思い出して怒る人がいれば、それだけで身体も心も蝕む。怒りはなるべく早く手放すに限る。過去の傷も薬を塗って直してしまおう。過去の傷も引っ掻けば、直りかけのかさぶたが剥がれてまた血は流れ、新しい傷となる。怒りにこだわる必要は全くないことに、僕はこだわりたい。
こだわりの怒り
何で?
何か自分に不都合なことが起こったときに「何で?」と思ってしまう。日常の忘れ物、家事の失敗、他人の簡単なミスにはもちろん、人生単位の病気、被災、愛する人の急死などもそうだ。そこに「何で?」と理由を求めることは苦しむことに繋がる。人生に起こる全てのことに、理由などないことが殆どであるからだ。起きたことを受け入れられるために、人は理由を求める。しかし起きた出来事を受け入れたとき、そして前に進めたときにその理由が初めて分かることがあると考える。その「何で?」が足枷になっていないだろうか?
心の基地
LINEの返信がなく落ち込んだり、誰かの何気ない一言、悪意のないミスを何日も恨んだりしてしまう人は、何かが足りていないのかもしれない。心の中に基地がないのかもしれない。その基地は安全で安心で、どんな自分も受け入れてくれる。そこに帰れば癒されて、満たされる。心の給油や整備ができる。この基地があれば何があっても大丈夫、自分はそのままでいいと思える。自分は自分で、他人は他人だと分かって生きていける。
許されざるもの
不安、恐れ、怒りは誰しもが感じたくは無いが感じてしまうもの。許せないことが多い人は、これらの感情を抱えやすい。また自分の配偶者や子供も含めた、他人を許せないことが多い人は、許せない人の数も多くなる。そして間違いなくその人は、自分の過去や現在の自分をも許していない。つまり自分や他人を許せる人は、不安や恐れ、怒りを感じにくく、幸せである。許せなかった他人、許せなかった自分の過去を許せるようになったときに、人は幸せになれる。許されざるものは僕たちを不幸にするものである。
泣くな
僕は泣き虫だ。子供の頃から何でも泣いていた。保育園の迎えに定時よりお迎えが遅れたとき、毎年3月のクラス替え、部活の大会で負けたときなどはよく泣いた。今でも映画館、美術館、舞台は泣きに行く。仕事だってお看取りのときも泣いてしまう。でも子供の頃から「泣くな!」ってよく言われてたから泣くのを我慢することも多い。だけど内側から溢れる悲しみや感動で、よく泣いたらスッキリする。前向きになれる。だから泣きたくなったら「悲しいね、泣いていいんだよ」と自分には声をかけている。自分の感情には共感し、さらに許可しているのだ。怒ったって、不安を感じたって、そんな自分を裁かずに受け入れたい。それが他人を受け入れられることに繋がるとも信じている。