
自己憐憫という言葉を知っている。「どうせ自分なんて」と自分を憐れみ、他人と比べて自分の環境、能力、容姿を嘆く。親を恨んだりして、運命までも呪う。それを同情して慰めてもらうために他人にも言う。そうして自分自身を慰め、他人にもそれを請う。しかし、一時的に気分を和らげたところで何も生まないのである。そんな人からは、他人だっていつしか離れていくものだ。自己憐憫をしている自分に気づいたら、何か行動する、そして努力すればいいだけなのに。


自己憐憫という言葉を知っている。「どうせ自分なんて」と自分を憐れみ、他人と比べて自分の環境、能力、容姿を嘆く。親を恨んだりして、運命までも呪う。それを同情して慰めてもらうために他人にも言う。そうして自分自身を慰め、他人にもそれを請う。しかし、一時的に気分を和らげたところで何も生まないのである。そんな人からは、他人だっていつしか離れていくものだ。自己憐憫をしている自分に気づいたら、何か行動する、そして努力すればいいだけなのに。

自分の息子たちが成長するにつれ、それよりもずっと幼い子供たちを可愛いと思うことが多くなってきた。遠くから眺めているとみんな可愛いのだが、実際に何人かの子供たちと接してみると、その中には特に可愛いと思える子がいることがある。その子は人を惹きつける何かを持っているに違いない。同じようなことが大人にも言える。その人は特別容姿がいいだとか、面白いとかではない。よくよく考えてみると、人を惹きつける一番の力は、その人が素直であることかもしれない。赤ん坊ほど素直な子はいないのだ。いわゆる表裏がないのだ。年齢関係なく、その人を助けて、力になって、役に立ちたいと思う。愛される人は素直なのである。人を惹きつけられる人はそんな生き方をしている。

「気は優しくて力持ち」と言うけれど、その力とはきっと共感力だろうと考えてみた。共感力とは、相手の心理を理解しようとして、更に心理的ニーズに応えられることであろう。共感力の高い人はその相手に関心を持ち、寄り添う、励ます、肯定する、そっとしておく、叱る、楽しませる、などの行動が取れる。しかし、共感力を発揮するにはたとえ夫婦だろうが、親子だろうが、親友だろうが、誰もが一人一人別の人格であることを忘れてはいけない。また自分のことを理解して、自分を愛していないと誰かに共感できても、その力はきっと奪われてしまうのである。共感力とは愛情力である。また年老いてもつけられる力である。

楽しくないのに楽しい振り、嫌いなのに好きな振り、悲しいのに悲しくない振りをすると疲れる。つまり心のエネルギーが奪われる。自分の感情に蓋をして、他人の顔色ばかり伺えばいつしか生きるエネルギーもなくなり、抑うつ状態になる。人生を楽しみ、ときには悲しみ、また他人の評価に左右されない人は、たとえ肉体のエネルギーは奪われたとしても、心のエネルギーは保たれるであろう。エネルギッシュだと思う人は、肉体ではなくて、心がエネルギッシュなのである。パワフルだと思われる人はそんな生き方をしている。

過去だって、未来だって人生どうしようもないことだらけである。どうしようもないことに囚われることは生きるエネルギーを奪うばかり。生い立ちや天気、容姿や才能には抗うことはできないから、悩む必要なんてない。また他人の評価やご機嫌に振り回されたり、自分に関係ないニュースに不安を感じたり、SNSに感情を奪われたり、愛してる人の反応に期待を裏切られたりして、僕たちはエネルギーを自ら奪ってしまう。どんなに自分と近い人でも、自分以外は他人であることを忘れてはいけない。他人の心は全ては理解できないし、自分のことも全ては理解されない。だから他人の心に気がついたとしても、そっとしておくのも愛であることを忘れてはいけない。つまりどうしようもないことを放っておくことが、自分を幸せにすることを忘れてはいけない。