
僕自身医師になるまでは、職業選択を悩んだことはなかった。それが幸せなことなのか?不幸せなことなのか?今の答えは前者である。適性があったか?好きだったか?と問われるならば、適性があり好きである。適性であるように歩んできたし、好きになるように生きてきた。人は生まれるべくして生まれ、人生はなるべくして流れる。人生は選択の連続であるが、実は選択できないことも多くある。自分の選択であろうが、非選択であろうが、幸せだと思い全うすることこそが人生であろう。職業選択に悩みが無かったことに感謝している。
僕自身医師になるまでは、職業選択を悩んだことはなかった。それが幸せなことなのか?不幸せなことなのか?今の答えは前者である。適性があったか?好きだったか?と問われるならば、適性があり好きである。適性であるように歩んできたし、好きになるように生きてきた。人は生まれるべくして生まれ、人生はなるべくして流れる。人生は選択の連続であるが、実は選択できないことも多くある。自分の選択であろうが、非選択であろうが、幸せだと思い全うすることこそが人生であろう。職業選択に悩みが無かったことに感謝している。
誰かと友人や恋人として付き合うときに損得関係で考える人がいる。結婚相手に昔で言う3高を求めたり、あの人は奢ってくれるからとか、あの人は店に行くとサービスしてくれるからとか考えるのである。しかし自分を美しく、強く見せなければ嫌われてしまう、と恐れる相手とは付き合わなくてよい。また恩着せがましく優しさや愛情をアピールしなくても、お互い分かり合え、感謝し合えることも必要であろう。また会話して和む、一緒にいて落ち着く、お互い無言でも気にならないのも相性がいいと言えるであろう。自分の心が得する関係と言えるかも知れないけど。
誰かを愛していると言っていても、場面が変わると憎しみの籠った言動を繰り返す人がいる。それは矛盾しているようだが、よくある話である。同居の家族に繰り返すDV、子供を心理的に支配する親、不機嫌を繰り返す配偶者などが例えば挙げられる。それは自分が愛しているというよりは、相手からの愛を求めているに過ぎない。だから親に愛されていないと思う子供こそが非行に走る。愛している気持ちで満たされ、幸福を感じられることで初めて愛していると言える。逆に愛情飢餓感から憎しみに変わり、そして不機嫌になる人は、愛することを知らないのだろう。結論として、真実の愛と憎しみは共生しない。操作対象である家族や配偶者に対して抱く憎しみこそが、愛に飢えた人間の執着心の発現である。
誰かと比較して劣等感を感じる人は、誰かと比較して優越感を感じたがる。そして束の間の幸福感を感じる。それを短い人生の中で繰り返していく。親からの愛、成績、徒競走、学歴、会社の知名度、恋人のスペック、配偶者の収入、地位、子供の学力、持病、容姿など他人と比べて自分はどうか?と。比較することで得られる優越感は麻薬のようなもので、そのときに得られる幸福感はあくまで一時的で、次から次へと比べて優越が得られないときには、誰かの悪口や誰かを攻撃までして、何とか優越感を感じようとする。比較をやめられたときこそ、気づいたら劣等感は感じずに、そして優越感を求めなくなる。そのときこそ我々が幸せを感じる無限ループに入ることができると信じている。
子供たちの夏休みが終わった。みんな宿題は計画通りに終わったのだろうか?計画通り終わらせるためには、大人たちの都合、天候、コロナ、友達家など全ての事情が絡むことなので、子供時代から計画通り行かないことを学ぶ機会と捉えてきた。
思えば人生の大部分は、計画的にはいかない。旅行にはアクシデントがつきものだし、病気だって計画的にはならない。進学だって、就職だって、努力だけでは希望は叶わないことも多い。また自分の計画を遂行するために、周りを巻き込んでしまうこともあるし、誰かの計画のために巻き込まれることもある。子育てや介護なんて特にそうかも知れない。だから計画通り行かないのをいつまでも嘆いていたり、他人を責めたりしてはいけないのだ。計画通りに行かないのを受け入れて、前へ進んだり、それを楽しんだりすることが人生には肝要だろう。しかしながら計画は必要であると考えている。なぜなら計画こそが、今自分のやるべき道を示してくれるからだ。計画を立て、軌道修正をして、一つ一つ歩んでいくことを続けていくのだ。以上を僕の夏休みの自由研究としよう。