
相手の怒る原因が分かればいくらか対処ができる。だから気は楽である。一方でいつも怒る原因が分からない人は困る。一緒に仕事をしたり、暮らしたりするならば気疲れするから困る。ご機嫌取りほど疲れることはない。でも原因はその人の人間性だと考えると少し疲れないかも知れない。他人に何かを求めて不満を怒りで表す人は、自分の心の問題であることを知らないのだ。
相手の怒る原因が分かればいくらか対処ができる。だから気は楽である。一方でいつも怒る原因が分からない人は困る。一緒に仕事をしたり、暮らしたりするならば気疲れするから困る。ご機嫌取りほど疲れることはない。でも原因はその人の人間性だと考えると少し疲れないかも知れない。他人に何かを求めて不満を怒りで表す人は、自分の心の問題であることを知らないのだ。
自分以外の周りの人を好意的に見られるかは幸せへの乗車券である。また、いざというとき自分を助けてくれると信じられるか?みんな努力していると感じられるか?その人の悪意ないミスを許せるか?それらは幸せへの特急券であろう。それにはまず自分で自分を好意的に見られるかが肝要である。自分が自分の一番の味方で、自分を褒めて、自分のミスを許すことが幸せへのパスポートである。
こう言われたことがあるし、言ったことがあったかも知れない。「何で片付けないの!」、「何でそんなこと言うの!」、「何で愛してくれないの!」などなど。言われた方にはそれなりの理由がある。言う方は我慢しながらも言ってしまう。しかし「何で」の理由を言っても批判が繰り返され、結局は互いの気分を害して終わるだけ。「何で」が浮かんだら相手は別人格だと再認識したらいい。そして自分の気持ちだけを伝えるだけでいい。私は片付けて欲しい、僕に教えて欲しい、私を愛して欲しい…などなど。「何で〜してくれないの!」は言う方も言われる方も辛くなる。相手の言動は誰であれ制約してはいけないし、制約されたら嫌なものなのだ。
人は生まれてくること自体はもちろん、自分の性質、親を始めとする環境を選べない。与えられた自分の性質や環境に合わせて生きていかなくてはならないのである。その前提で、過去の偉人たちの多くはいわゆる恵まれた幼少期を送っていないことも多い。お釈迦様のお母さんは生後すぐに亡くなっているし、チャップリンのお父さんはアル中、森鴎外のお母さんは支配的で過干渉だったらしい。果たして彼らは幸せだったのか?それは本当のところは分からない。しかしやりたい道で成し遂げた仕事が素晴らしいことに間違いはない。前向きに取り組んでいたに違いない。そして自分の性質や環境を受け入れてきたのであろう。さらに自分で道を見つけて進んだのだ。後ろ向きではなかったのだろう。自分で見つけた道には、幸せがついて来ると信じて今日も歩んで行こう。
愛する力は人によって大きく違うのだろう。大切に重い、何かをしてあげたい、見守りたい、心配する、信じる。思うだけで幸せになれる。これは男女の恋愛だけを言わない。家族、仕事、同僚、友人、全ての人が対象である。さらに動物、植物、食べ物、お店、ブランド、趣味、野球チームだって愛する対象だ。言うならばこの世の全てだ。まずは愛することができるだけで幸せだと思える人には、愛する力がある。そして何でも楽しめるし、自他ともに傷をつけないであろう。愛する力は自分自身が自分であり続け、他人のそれを尊重し続けられる力なのだ。しかし多くの人が勘違いしている。それは服従や代償を求めている時点で、愛する力ではないのである。