人は生まれてくること自体はもちろん、自分の性質、親を始めとする環境を選べない。与えられた自分の性質や環境に合わせて生きていかなくてはならないのである。その前提で、過去の偉人たちの多くはいわゆる恵まれた幼少期を送っていないことも多い。お釈迦様のお母さんは生後すぐに亡くなっているし、チャップリンのお父さんはアル中、森鴎外のお母さんは支配的で過干渉だったらしい。果たして彼らは幸せだったのか?それは本当のところは分からない。しかしやりたい道で成し遂げた仕事が素晴らしいことに間違いはない。前向きに取り組んでいたに違いない。そして自分の性質や環境を受け入れてきたのであろう。さらに自分で道を見つけて進んだのだ。後ろ向きではなかったのだろう。自分で見つけた道には、幸せがついて来ると信じて今日も歩んで行こう。
自分で見つける
愛する力
愛する力は人によって大きく違うのだろう。大切に重い、何かをしてあげたい、見守りたい、心配する、信じる。思うだけで幸せになれる。これは男女の恋愛だけを言わない。家族、仕事、同僚、友人、全ての人が対象である。さらに動物、植物、食べ物、お店、ブランド、趣味、野球チームだって愛する対象だ。言うならばこの世の全てだ。まずは愛することができるだけで幸せだと思える人には、愛する力がある。そして何でも楽しめるし、自他ともに傷をつけないであろう。愛する力は自分自身が自分であり続け、他人のそれを尊重し続けられる力なのだ。しかし多くの人が勘違いしている。それは服従や代償を求めている時点で、愛する力ではないのである。
秋には
日本には四季があり、秋には美しい紅葉や美味しい果物を楽しむことができる。一方でプレートの関係で地震が多く、夏には太平洋から発生する台風、急峻な河川からの洪水、日本のシンボルの一つは大火山など、まさに天災大国である。昔からこれらにより、われわれのパーソナリティは大きな影響を受けてきた。まず各地に見られる神社仏閣や伝統行事での神々への祈りや感謝は、その性質の表れである。しかし天災により日本人は、必要以上に孤独や不安を感じ易いのではないだろうか?いつどのような規模で起こるか分からないことは非常に怖い。そのなかで生き残るためには、一人ではなく、何らかの集団を形成することになる。また予期不安を感じ易いこともあるだろう。そういった祖先たちが生き残り、われわれに生命のバトンを繋いでくれているのだ。だから遺伝子に組み込まれた、ネガティブな感情を生み出し易いこの体質と、われわれは上手く付き合う必要があるのだ。どうしても拭えない孤独や不安で苦しんでいるときに、大昔から四季の美しさや神々の力が助けてくれてきたことを思い出すといい。日本人はそうやって生きてきた。
寂しさとともに
一人でいようが、みんなといようが、誰といようが寂しさを感じたことがある。また陽が短くなり、寒くなるこの季節は寂しさを感じやすくなる。寂しさを感じるのは誰にでもあることで、我々の本能であると考えている。だからそれと向き合うことは大切な構えである。寂しさは、群れを成さねば生き残れなかった人類が、長きの生存競争に生き残るために、また幼き頃母親から庇護を得るために、繁殖行動のために感じる脳内の反応の一つである。食欲や性欲と言った原始生物も持つものよりは少しだけ高次脳機能かもしれないが、人間誰もが感じるものである。だとすればそれと向き合い、対応することが僕たちのできることであろう。寂しさから怒りで他人を攻撃したり、寂しさに付け込んだ詐欺やカルト宗教が後を絶たないことからも、寂しさとの付き合い方を上手くできる人こそが、自分を幸せへと導けることも間違いない。つまり寂しさを感じなくなることは不可避であるが、寂しさを自分を知る一歩と考えられるようにすることは可能である。例えばこの時期が寂しいのは、寒さに慣れていない体を温めようとするためであるし、また自分の子供や配偶者が思い通りにならないと寂しさを感じるのは、自分とは違う別人格であると再認識するためである。その寂しさには必ず意味があるのである。
自分次第
自分を知れば、相手も知れる。自分を受け入れられれば、相手も受け入れられる。自分を愛せれば、相手も愛せる。自分が元気ならば、相手に元気を与えられる。自分が幸せになれれば、相手も幸せになれる。子供だって、配偶者だって、同僚だって、全ての相手は自分次第。だから相手の顔色ばかり窺わなくてもいい。まずは自分の心を窺えばいい。