僕は泣き虫だ。子供の頃から何でも泣いていた。保育園の迎えに定時よりお迎えが遅れたとき、毎年3月のクラス替え、部活の大会で負けたときなどはよく泣いた。今でも映画館、美術館、舞台は泣きに行く。仕事だってお看取りのときも泣いてしまう。でも子供の頃から「泣くな!」ってよく言われてたから泣くのを我慢することも多い。だけど内側から溢れる悲しみや感動で、よく泣いたらスッキリする。前向きになれる。だから泣きたくなったら「悲しいね、泣いていいんだよ」と自分には声をかけている。自分の感情には共感し、さらに許可しているのだ。怒ったって、不安を感じたって、そんな自分を裁かずに受け入れたい。それが他人を受け入れられることに繋がるとも信じている。
泣くな
今より早くはない
「何でこんなになるまで病院に来ないの?」と外来をやってて思ってしまうことはある。またそのように患者さんに言ってしまったこともある。しかしそんなことを思ったり、相手に思わせてもお互い辛くなるだけである。病気は見つかったときが一番早いのである。見つかるべくとき、病院に行けたときがそのタイミングであると考えるようにしている。同じようなことは病気以外にも沢山ある。「こんなことなら子供のころ勉強すればよかった」、「結婚する前は優しかったのに」、「こんなに渋滞するなら出かけなければよかった」、「また飲み過ぎた」などなど。今より早いときはなく、これからどうするか?に活かしていく他はない。その繰り返しが人生である。
一番の安定剤
感謝出来ることを探そう。それは他人の悪意なきミスを憎んだり、自分の小さなアンラッキーを嘆いたり、仕事が行き詰まったり、子供が期待を裏切ったり、パートナーから愛を感じなかったりする場面である。何ごとにか感謝ができれば、人の気持ちは落ち着く。また感謝の念により、大体のことが取るに足らないことが分かる。感謝にて自他共に愛せる。感謝できれば幸せに気づける。感謝が一番の安定剤である。
怒りの正体
アンガーマネジメントの研修をしたことは何回かある。怒りは二次感情で、その前に不安や恐れを感じると怒りに変わると教わったことはよく覚えている。つまり不安や恐れの強い人は怒りっぽくなるという。われわれは生きていくなかで、都合の悪い一次感情をいつしか怒りに変える脳を作ってきた。「泣くな!」、「ビビるな!」、「モジモジするな!」と。子供時代に感じやすかった一次感情は、いつしか抑圧されるようになった。そして抑圧の結果として、怒りを覚えた。周りの大人たちが泣く子を見たくなかったのかもしれないとも思う。怒りはだいたい攻撃に変わり、近くの弱い人を責めるのだ。誰もが他人や自分を傷付けることができる怒りは感じたくないはずだ。それにはまず不安や恐れを感じた自分を受け入れてみる。次に何に不安や恐れを感じたのか?を思い出してみよう。逆に誰かに怒られたときには誰かの不安や恐れを考えてみる。その怒りの正体を僕は知ってる。
目に見えないもの
われわれは目に見えるものを大事にする。「百聞は一見にしかず」とも言おう。しかし目に見えないものが沢山ある。例えばネット回線は世界中に渡っているが見えない。見えない情報はコンピュータを媒介にして見ているに過ぎない。僕たちは見えないものを心で見ている。見えないものは心を媒介にして見ているとも言えよう。心を大切にすることが、見える世界を美しくできる。